日記のようなもの 7/18 (色々と批判文)
こんにちは。
予備校の出張講義参加により、受験生になってきているのだなとしみじみと思い始めている白羽さんです。
さて、今日の話題。
それは、昨年7/18にあった事件についてです。
そう、京アニ放火殺人事件。
今日の日まで、あの日のことを忘れた日はありません。それほどに、痛々しい事件です。
それに、自分は京アニのファンを公言していた身分。
事件当時に受けたショックは計り知れないものでした。
事件を起こした理由、それすらただの妄想が生んだ些細なもので。
そんなことのせいで多くの人の命が奪われたとなると、犯人を憎めずにはいられません。
とはいえ、大量殺人は色々なところで起こっていますが、基本人間は知りえるところの事しか語りません。
『自分の好きなものが傷つけられた時にしか怒らない偽善者め』と思う人もいるでしょう。
ええそうです。私は偽善者です。
それが悪いとも、思いません。
むしろ何も語らずじまいのまま終わることの方が悔しく悲しいので。
だから私は、あの日のことを死ぬまで忘れません。
犯人を死んでも許しません。
それくらいの覚悟はしているつもりです。
そして、今年の7/18はというと...
俳優の三浦春馬さんが、自殺で亡くなられました。
ご冥福をお祈りします。
詳しい原因は私、よくわかりませんが、また誹謗中傷が、ってのが回っているそうですね。
これに関しては、思うところが色々ありますが、もし誹謗中傷だとしたら、これはもうあきらめるしかないですね。
日本人って、たぶんそういう生き物なんですよ。自分含めて。
気に入らないものを批難し退ける。
誰かと束になって攻撃する。
自分は遠く、返り血がかからない場所で。
嫌になりますね。そしてそれが、本能的に人間に流れているものだとしたら、いよいよ自分一人の力では変えることのできないものになるでしょう。
大きなものが、小さなものを飲む社会。
だから人間は、大きなものになる。もしくは巻かれるようにして生きるんでしょうね。
さて、私が気になっているのはもう一つ。
『自殺』というものです。
まあ、少なくとも印象の良いものではないですよね。
そして、死体が出ることでものすごく迷惑が掛かります。
首吊りなど跡が大変だそうで...。
じゃあ、死んではいけないのか!と思うかもしれませんが、私はそうは思いません。
だって、おかしいじゃないですか。
一方的に生きる権利は憲法において保証されながら、死ぬ権利は与えられてないんです。
言い返せば、地獄のような状況においても生きることを迫られるのです。
そうして無理に生かされた人生、辛いじゃないですか。
どれだけ我慢しようと、人間は強くありません。限界があります。
誰かに相談することで少しは和らぐかもしれませんが、限界があります。
『死にたい』という結論に行きつくことは、不自然なことじゃないです。
人間はその大多数が弱いんですから。
だから、私の言いたいこと。
安楽死法案、通したらどうですか?
生きる権利が人権なのなら、死を選ぶ権利も人権です。
自分の生きる道は、自分で決めるべきなんです。誰の干渉もなく。
残される人の気持ちが、家族の気持ちが、そういうのもあるでしょう。
けれど、自殺する境遇にある人は、それすら壊れてます。そういうケースもあります。
だからこそ、迷惑のかからない死に方というものを実現させるべきではないのでしょうか。
最後に。
私は死ぬなとは言いません。
ですが、もしそういう悩みを抱えている人がいるのなら、せめて話は聞かせてほしいです。
その人が何を思って死んだのか、それすら分からない死がこの世にはたくさんあるので。
だからこそ、それを減らしたいと思う人生です。
といったところで今日はこの辺で。
お目汚し失礼しました。