日記のようなもの 7/27 命の時間
こんにちは。
今日はタイトルのごとく、白羽さん、ガチモードです。
命の時間。
このタイトルにした理由は、本日六時間目の授業にて問われた質問が、人間が一番考えるべきものと判断したからです。(白羽さんは高校三年生)
政治経済の時間の冒頭で、話題になっているニュースが取り上げられる授業。
その中で、今日提示された紙は、先日のALSのニュース、並びに四年前の障がい者の虐殺事件のニュース。
一通り目を通して、出された議題が
・安楽死にはどのような種類があるか
・安楽死はありか、なしか
・命の重さは平等か
これに加えて、生まれてくる子供の事前健康調査の是非、また、もしその子が障がいを持っていたら、あなたはどうするかというものでした。
前者二つは先日話した通りですので、割愛させていただきます。
そして、三つ目の議題。
命の重さは平等か。そう思うか。
難しい質問です。もちろん、私自身はこの世に産み落とされた命はすべて平等の価値であると、そう思っています。
しかし、現実はどうでしょうかね。
不幸にも、この世界に産み落とされた命、その全てが必要とはされていません。
はっきり言って、政治的なところから見て邪魔な命もあるでしょう。
したがって、私の答えは平等でない、です。
命の価値は平等であるから、そこから先の人生は努力次第で何とかなる!
いいえ、なりません。人にはいきつく先の限度があります。
例えば、の話ですが。
あなたは犯罪者の子供です。そんなあなたが、本気で内閣総理大臣を目指して、それは叶いますか?と聞かれたら、私は当然NOと答えます。
この案件、出生の時点でまず選択肢が狭まります。
こうした不平等があるのに、果たして平等と言えるのでしょうか?
少なくとも、私は言えないと思いますね。
ただ、ですが。
最低限、幸せになる権利は平等であってほしいと私はそう思います。
掴める先の範囲の幸せ。
けど人間は、きっとそんなちっぽけな幸せで生きていけるのです。
であれば、私のお願いは一つ。
誰かの幸せを、むやみに奪わないでください。
そうしているうちは、この世に平和などあり得ません。
誰かを幸せにするために、別の誰かを不幸にすることは別です。
故意でないのであれば、それはただの踏み越えるべき壁です。
誰かを傷つける勇気も、時には人に必要となるものですから。
残念なことに、この世の人間は全員が全員、見ず知らずの他人に優しくありません。
人は、自分の知りえる範囲の人間しか幸せにする能力しかありません。
だからどうか、自分以外の誰かを少しくらいは気にしてみる、そんなとこから始めれる人になってください。
私も、そうします。
といったところで、今日はこの辺で。
人に幸あれ。